【アスリートタウン延岡のいこいの広場】はイベント情報発信サイトです
旭陽会(旭化成陸上部) 高 橋 浩 一



1989年(平成元年)3月5日
延岡西日本マラソン大会にて
3度目の現役復帰を願って
旭化成陸上競技部50年史”激走”より
 今まで半世紀の間に、旭化成陸上部には数知れぬ輝かしい記録が残っています。日本記録、2度の全日本実業団駅伝6連覇、など。私も誰にも出来ない珍記録を達成しようとしています。
 陸上部に籍を置く者は、誰しもいつかは現役を退きます。私は昭和56年に入部し、3年間の競技生活で退部。鈴鹿工場の同好会で走り続け、翌年の東京国際マラソンで16位に入り、宗 茂さんと2人の合計タイムで団体優勝。その年からプレイングコーチに就任する宗兄弟に「もう一度延岡で一緒に走ろう」と声をかけていただいて、陸上部に出戻り。平成8年まで11年間現役生活を続けましたが、今回2度目の引退を告げられました。
 これで完全に陸上部から離れるのかと、一抹の淋しさを感じていると、4月からコーチという大役を仰せつかり、現在は後進の指導に日々忙しく過ごしています。しかし43歳になる宗 猛さんと36歳になる谷口さんが頑張っている姿を見ていると、私もまだまだ走れるとも思います。秘かに3度目の現役復帰を狙っています。
昭和56年入部 高橋浩一(茨城・土浦日大高卒)


 土浦日大高から旭化成に入社し旭陽会で頑張るも芽が出ず3年でいったん退部し鈴鹿工場に転勤したが陸上の夢覚めやらず仕事の合間練習に励み頭角を現し始める。
 1980年東京でのマラソン大会?で宗兄弟でチームを組んで出るはずが弟の猛さんが風邪を引き起こし出れなくなったときに一般ランナーとしてエントリーしていた高橋選手に白羽の矢が当たり茂さんと組んで見事団体優勝をする。
 この時、茂さんが、「高橋お前これからどうするんや?」と聞いたときに、高橋浩一はまだ走りたいがゆえに旭化成をやめて走れるところを探さんと既に退社届けを提出し、もう退社まで何日もないとのことを聞いた茂さんが、「それではもう一度延岡で走ろうや」ということで、無理を承知で会社に掛け合い、再び延岡に戻り旭陽会に籍を置いた高橋浩一は今日までのアスリート人生を全うされました。・・・・・。
 そして昨年の3月ごろよりご飯が食べられなくなり病院にかかるも病名が特定出来ず、わかった時には既に手遅れ、病床にあっても寝言で練習の事ばかり口にしていた高橋コーチ。病魔が全身を侵し3月15日帰らぬ人となってしまい平成8年より後輩の指導に携わったコーチの肩書きも終わってしまいました。(2006年3月17日告別式の席上での茂さんの弔辞より抜粋  間違った箇所もあろうかと思いますが、なにせ管理人自身涙ながらに聞いた弔辞、会葬席にて筆記用具も録音道具もなくうる覚えですが、高橋選手の思い出としてあえて記述させて頂きます。)
 2004年度第53回九州一周駅伝大会3日目11月7日佐賀県庁スタート前に撮影



訃報に接し掲示板に投稿された記事より

ご冥福をお祈りします  投稿者:同級生  2006/03/16/(木) 10:26:07

 朝刊で高橋浩一コーチの逝去をしりました。あまりにも突然の訃報に、愕然としてしまいました。
土浦日大から名門旭化成へと進み、数年後、堂々と先頭争いを繰り広げる彼の雄姿をテレビで見たとき、机を並べた同級生としてただただ感無量でした。美代子夫人との結婚、そしてコーチとして後輩を指導する立場になったと伺ったときも、彼の陸上への熱い思いは続いているんだなと、うれしく思いました。病魔に襲われても、彼の頭の中は陸上のことが片時も離れなかったことでしょう。
よく頑張ったな、高橋。お疲れ様。短くても濃い人生だったろ。本当にお疲れ様。
ご冥福をお祈りします。

ご冥福をお祈りします 投稿者:土浦日大陸上部応援隊 2006/03/17/(金) 13:18:12

 新聞で訃報を知りました。土浦日大高校から名門旭化成陸上部に入部し、幾多の困難を全て走りに変えてきた高橋選手。挫折も味わい、また延岡で走れることになったとき、一番喜んだのは高校の恩師 松田先生。高校の時の練習は彼にとっては物足りないくらいのスタミナの持ち主。10マイル走った後、また10マイルの練習をやっていたことは語り草となっています。その高校時代に走り抜けた川口運動公園は、アンツーカーからタータンに変わっただけ、いつでも練習に来てください。君は郷土の星として、いつまでも私たちの心に残るでしょう。
スタミナ勝負の君が、なぜラストスパートをかけたのか。早すぎる。残念だ。


第17回 防府読売マラソン 1986年(昭和61年)12月28日

第8位 2時間15分59秒 高橋浩一

別府大分毎日マラソン 1988年(昭和63年)

第1位 2時間11分58秒 ブルーノ・ラフランキ(スイス)
第2位 2時間12分00秒 篠原 太(神戸製鋼)
第3位 2時間12分14秒 高橋浩一



2002年九州一周駅伝大会に向けての宮崎県チーム綾合宿にて


延岡西日本マラソン 1989年(平成元年)

優勝 2時間18分15秒 高橋浩一
第2位 2時間18分19秒 安里秀光

第29回 西日本マラソン大会 1991年(平成3年)3月3日
10マイルの部
第1位 48分14秒 西村 功
第2位 48分30秒 高橋浩一


ゴールドコーストマラソン(オーストラリア)1991年(平成3年)7月

1位 2時間14分01秒 川島伸次
2位 2時間14分37秒 高橋浩一

第45回 福岡国際マラソン大会 1991年(平成3年)12月1日

第5位 2時間11分47秒 高橋浩一



2003年(平成15年)11月6日九州一周駅伝大会7日目宮崎県庁前にて

第1回仙台国際ハーフマラソン大会
1991年(平成3年)3月17日(日)



1位 01:03:57 新宅 永灯至 
2位 01:04:14 セルゲイ・ソコフ 
3位 01:04:56 高橋 浩一

東京国際マラソン  1992年(平成4年)2月9日
 優勝 2:10.19 森下 広一(旭化成)
 2位   2:10.25 中山 竹通(ダイエー)
 3位  2:10.37 早田 俊幸(鐘紡)
 4位  2:11.03 M.カスティーヨ(メキシコ)
 5位  2:11.17 末吉 富夫(鐘紡)
 6位  2:11.34 篠原 太(神戸製鋼)
 7位   2:13.25 西 政幸(旭化成)
 8位   2:13.37 仙内 勇(ダイエー)
 9位  2:13.57 H.ジョーンズ(イギリス)
10位 2:14.39 高橋 浩一(旭化成)

第30回 西日本マラソン大会 1992年(平成4年)3月1日
10マイルの部
第1位 48分02秒 熊谷哲哉
第2位 48分18秒 高橋浩一


2003年(平成15年)11月8日九州一周駅伝大会9日目
佐々木秀行選手区間の監督者ドライバーとして


第26回 防府読売マラソン 1995年(平成7年)12月19日

第2位 2時間16分26秒 高橋浩一
第5位 2時間18分51秒  宗 猛


 2005年2月20日三木 弘選手が旭化成陸上部員として最後のレースとなった西日本マラソン大会のゴール地点にて選手を待つ高橋コーチ
 いこいの広場のカメラにまさかこれが最後の写真となろうとは
新潟マラソン
1997年(平成9年)10月10日

男子ハーフマラソンの部 
1位 1°03'54" 三木  弘(初挑戦)
2位 1°04'48" 石本 孝幸 
4位 1°09'16" 高橋 浩一


九州一周駅伝大会

監督で出場 
選手として11回出場 区間賞13


朝日駅伝

回出場し 区間賞 

 戦争の爪跡が残る昭和25年に始まった成人の日恒例の「朝日駅伝」。戦後の経済的復興と人々の精神的高揚をめざしたこの大会は、歴史を重ねること今年で57回目を迎えます。
 半世紀を越えた歴史のなかで数々の名勝負・名ランナーを育ててきた「朝日駅伝」。



presented by WWFClub   since2002/ 管理人へのメール


SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送